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小説「アウローラの美瑠と黎明なマセラティ」

プレリュードとフーガ

秋月十紅/著


 耳元を押さえながら振り返った美瑠は、柔らかそうなベッドに片足を突っ込みアームチェアに座ったままの千佳を上目遣いで伺って、

「一応言っておきますね……おやすみなさい……ちーちゃん」

 声変わりもしない独特な甘い声をホテルの寝室へ響かせてから、フリルたっぷりのシーツの中へ隠れるように潜って蜂蜜色の髪を枕元へ出した。

「うん。おやすみなさい……美瑠……」

 千佳はそれに対し出来るだけの優しい思いを声に乗せ男の子にしては少し髪が長く少女のような顔立をした美瑠へ答えながら、イスに立て掛けてあるチェンバロギターを抱えた——

 千佳は高校に入ってはじめての夏休みを突然イタリアで過すことになった。

 それは、美瑠の母親。つまりは社長がクライアントの都合で一ヵ月程出張する事が決ったのが切っ掛けで、社長が溺愛する我が子と離ればなれになりたくないという気持ちに只の学生アルバイトである千佳が押し切られた所為だ。出発まで何度も断ろうとした千佳だったが、既に両親に手を回し承諾をとっていた社長は、『いい社会勉強になると思うよ♪』の一点張りで。強引に話をまとめられ日本を離れたのだった。

 イタリアでは、無許可で外出は許されていないことが苦痛だったが、重厚な石造りのホテル内での行動は許された。千佳の役目は簡単な事務処理を手伝ったり美瑠の夏休みの宿題を見る家庭教師を任されていた。つまり、膨大な雑務と小学生の子守りを任されたのだったが、時々簡単なデザインワークを手伝わせてくれるのが楽しみで、大人として魅力的な社長と可愛い美瑠との旅行だと割り切るとかなり美味しい『社会勉強』だった。

「何の曲がいい?」

 千佳はチューニングしながら流し目で、美瑠を見ると「バッハ?」などと小首を傾げながら十歳児にしては高尚なリクエストを言ってのける瞬間だった。そんな彼に予め決めていた楽曲だと悟られないように、わざと唇に手を添え多くの楽曲から選んだフリをして、

「ん〜とね……じゃぁ……プレリュードとフーガね」

 ウィスキー片手に煙草なんかふかしながら気取る女性を想像しながら言う。

 はじめは、なかなか心を開いてくれない美瑠だったが、千佳がギターでクラシックを演奏したのがきっかけでこうやって話せるようになり、最近では社長が仕事で夜遅くなる時は必ずこうやって甘えてくるようになった。

「やった! いつもの曲だ」

 フリだと言う事を見破ったのか美瑠は、ふひひ。と悪戯に笑みを浮かべてからシーツを口元まで隠して、目を細めて演奏が始まるのを待つ体勢を作った。

 千佳は、悪戯な笑みを浮かべた美瑠に対して冗談で蔑んだ目を作って、

「私の演奏は魔法なの。ミルクなんてたった三分で夢の世界へご案内よ!」

 チェンバロギターのスチール弦を弾く為に付けた指の針を見せながら『みるく』という二人でいる時にしか呼ばないあざなを使ってわざと挑発するような事を言うと片目を開けて、

「……今日は、がんばるよ?」

 既に弱きで今日の豊富を言う。何故か疑問系で。そして恥ずかしそうに笑みを浮かべ目を閉じた。それもそのはず。最近では最短レコード更新中。あっという間に可愛い寝顔を見せてくれるのだから。

 ……かわいい。

 千佳は小さく唇だけ動かしてから、そっと弦を弾いた。

 出来るだけ眠りを誘発させるように——、

 弦に触れる手は生クリームを掬うように——、

 そして、優しく髪を撫でるように——。

 チェンバロギターの旋律が響く部屋は、魅力的で表情豊かな塗り壁、見事なケーシングにアンティーク家具。そして、象嵌が入り草木の彫刻が彫られた豪奢なベッド。どれもが素晴らしい工芸品。そして羊の革で作られたランプがそれぞれをオレンジに煌めかせているのだ。

 それは、ギターの音色から醸し出す神秘的な世界と相まって絵本の一ページのようで、美瑠を天使のように、更に美しく精妙さを際立たせていた。

 千佳は、美瑠の掌が力無く天を仰いだのを確認してから静かに弦を押さえ、

「ざ・ま・み・ろ。簡単に寝かしつけてやった」

 美瑠に近付きリズムよく小声で囁いてから勝ち誇ったように腰に手をあてて指の針を取る。

 しかし、よくこんな高音の楽器で眠れるなぁ。と不思議そうに美瑠の顔を覗いてからチェンバロギターを片付け時間を確認した。

 社長が帰ってくるまでもう少し時間がある。

 千佳は、いつものように美瑠が眠るベッドに腰かけると、はふー……はふー……。と美瑠が規則正しく吐息を漏らす。そんな口元に耳を寄せ少女のように整った顔を眺めた。美瑠は薄香色の肌を少し赤らめ小さく形の良い唇を愛くるしく動かしながら腕をシーツの外へ出し頭の横に手を置き空気を握っている。

「可愛い……そんな所まで社長そっくりなんだ……」

 握るか握らないのか微妙なグリップに見とれつつ蜂蜜色の髪を掻き分けて、そっと美瑠の耳の後ろへ手を回し指を耳朶に沿わした。それは、千佳なりの愛情表現。

 自分の演奏で寝てくれたのが嬉しいのだ。

 そんな手がくすぐったいのか美瑠は千佳の手に頬を擦り付け指の動きを止めようとして、

「ぷひひ……あははっ」

 微かな声とともに僅かに身を捩った。

 ……? 起きてる?

 思った刹那、美瑠はぱっちりと目を開け濡れた瞳を披露。

 けっこうな至近距離に驚きつつ、

「今日のは特に我慢できませんでした……」

 残念そうに、罰の悪そうな笑みを浮かべ顔を真っ赤にしている。

 千佳も千佳で美瑠の首筋まで手を回していたおかげでかなり顔と顔の距離が近く、いきなり目が合って正直驚きながら、

「あっ……今日のは? ……のはって事は毎晩こうしてたの知ってたの?」

 美瑠の可愛い癖をいつも見れて嬉しかったのに、逆に子供にこんなことしていた私が変な人扱い? なんて考えたら恥ずかしくてなってうなだれると、

「ごめんなさい……ボク、はじめの何日かは本当に寝てたのですが……その、くすぐったくて。でも起きたのを言おうと努力したのですが余りにもちーちゃんが母さまのように優しい顔をしてたので——」

 美瑠は首に回された千佳の手を放さないように、ぎゅっと掴んで、

「——母さま以外から優しく触れてもらうって事あまり記憶になくて……それで……」

 愛おしそうに腕に頬を寄せ、

「……その……甘えて見たりしました」

 ごめんなさい。と目を閉じた。

 触れた手がすべすべで、さくら色の頬が心地よくて、細くしなやかな首筋が気持ちよくて……それより、美瑠の素直な心に——

 そんな仕種、言動が千佳のむず痒く感じていた心を一瞬撫でた。

 すれてないというか純真な心の声で寂しさを上手に伝えた美瑠がかっこよく感じたのだ。

 私はこんなに信頼されているというのに、自分はどうなのだろうかと。

 社長との仕事だけを優先していたのかも知れない。いや、その仕事も雑務と片付けたではないか。美瑠の事も、ただの子守りとして。イタリア旅行に行ける雑務だっただけではないか。

 それは、社長が自分を特別に可愛がってくれているのに胡座をかいていたからのではないか。

「このままボクが寝るまで、触っててもらっていいですか?」

 両親の勧めでデザイン系の高校に進学し、両親のコネで社長の所でアルバイトをはじめた事も、将来を見込まれ社長と出張に同行出来た事も、すべて受け身だったではないか。

「……寝るまで見ててあげるから……安心して……おやすみなさい」

 罪悪感に苛まれながら無邪気に甘える美瑠の顔を見ると堪えられず視界が不覚にも歪んだ。

 はじめ美瑠はまったく千佳に心を開かずにいた。しかし、幼少の頃から触っていたチェンバロギターのおかげで美瑠の心を動かしたのだ。それは事実。それなのに。

 千佳はそれにさえも向き合わず。

 思い付く事全てに向き合って無い事を、たった二週間程しか接していない少年の華飾のない素直な言葉で思い知らされたらしい。

「何で、泣いてるの? ボクが寝ちゃうと寂しいから?」

 美瑠は申し訳なさそうに言い。そして、千佳の丸いおでこを撫でながら、

「よしよし、ちーちゃん。ボク……ちーちゃんの魔法の音楽好きだよ。聞いてると温かくて」

 だから、泣かないで……。と睡魔と戦い続ける頭で考え小さく柔かそうな唇を必死に動かし千佳を励ます言葉を紡いだ。

 そして、ゆっくりゆっくりと撫でるすべすべの手が千佳の心を掴んでいった。

「ありがとう……」

 まったく……この家族には適わないな。

 このまま美瑠と一緒に寝てしまいたかったが、美瑠や社長にちゃんと応えられるよう、将来就く職種であるデザイナーの道と向き合おうという気持ちでそれを自制した。

 私、この慕われている心で生きていける。この心さえあれば……

 与えられるのではなく何かを掴んでいきたいと、何かと真剣に向き合う為に行動した事のなかった千佳にとって今夜は特別な夜になった。

 

 そして、次の日は初めてプレリュードとフーガを最後まで弾き終えたのだった。

*

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