小説「アウローラの美瑠と聡明なマセラティ」3
小説「アウローラの美瑠と聡明なマセラティ」3
秋月十紅/著
※
楽しい時間というのは何処か別次元で進み、通常では考えられない照度を体験する事がある。
その体験と程よい疲れが絡みあう時間の中に千佳はいる。つまりは相当に惚けて、
アマルフィで世界一美しいティレニアの海と甘い色の髪を潮風いっぱいに受ける眩しい親子と貴重な余暇は、一瞬の瞬きと共に。
冷えていた千佳の心は、緩い人肌までに。
他人が触れてもきっと心地よい体温を伝えられる程に興奮した一日は過ぎていった。
いつも少し寂し気で甘え上手な美瑠と普段の仕事モードとはかけ離れた息子ラブに千佳ラブオーラ全開の社長は、アマルフィの風光明媚さに負けない美しさを放っていた。
千佳の目には眩しくて。温かくて——。
「ちーちゃん?」
帰ってきて早々クライアントから連絡があった社長はホテルのロビーで打ち合わせに入っている。千佳と美瑠は、それが見える少し離れたソファーに腰掛けて暇を持て余していた。
「……ごめん。なに?」
千佳は思慮に耽って力なく半開きになった口元を押さえ上目遣いの美瑠に目線を落すと、
「あっ、いいえ。ホテル帰ってきてから心ここにあらずって感じだから、つい……」
美瑠は少し過ぎた言葉を使ってしまった事に照れるように言い終わると、ふひっと照れ笑いを見せ、
「それと……母さまの前だと口調と態度が少し違ってて面白かったです」
小学生高学年には分からない社会の序列意識に欠けた発言に千佳は苦笑いを贈る。
確かに楽しい一端に垣間見た感情があった。正直、何かに嫉妬しているかのようなモヤモヤしたやつだ。
美瑠に対して?
社長に対して?
整理がつかないが、遠い異国の地にいる知人は二人。
千佳の感情を揺さぶる何かが思慮の淵に立たせるのだ。
親子が仲が良いのは当り前であって不自然でもなんでもないのだが、アタリ良く温かな雰囲気に包まれていた時間が心地よすぎて戸惑っているのかも知れない。
千佳は社長に出会い美瑠に出会い確かに変わってきている。両親の造った道を何度も両親を振り返りながら生きてきた千佳とは随分と違っている事に気付きはじめたからだ。
「ちーちゃん!」
深淵を打ち消すハレーションのような、思慮の世界から一蹴する美瑠の怒りを含んだ声音。
そんな美瑠に気付いた時には、唇を少し尖らせ頬を膨らませ、今にも千佳の膝の上に乗ろうとしている所だった。
「あの……ミルクさん?」
美瑠の肩ごしに、オレンジ色に滲むランプが。そして真剣にクライアントと打ち合わせをする社長が。徐々に美瑠の華奢な肢体で千佳の視界を奪っていく。
「ちーちゃん! 今ボクと一緒にいるのは……傍にいるのは誰ですか!」
基礎体温がはっきりと違う体温がのしかかり、千佳の両頬を小さな手で挟み強制的に美瑠の真剣で真っ赤な顔に標準を固定させる。
後光のように美瑠の背後からオレンジのオーラ。暖色に包まれて、
「ねぇ、誰ですか?」
畳み掛けるように問いかける。
「だっ誰って、美瑠だよ」
千佳は二人に余計な感情を抱いてしまっていた事を悟られないように必死で目を逸らし、擦り寄る美瑠のシャツの隙間、乳白色からなる鎖骨あたりに目を落すが、
それが、美瑠の琴線に触れたのか興奮気味に千佳を一段と自分の顔へ手繰り寄せ、
「昼から様子がおかしいの気付いてましたよ。なんでも話してください。相談乗ります」
甘い幼な声で可愛く生意気な事を言って退けた。
超至近距離。美瑠の吐息が千佳の前髪をくすぐり溜まらず美瑠を見上げる。
改めて見る美瑠は、やはり少女そのもの。柔らかそうでサラサラの髪は極上の絹糸の束で、丸いおでこにかかる前髪は数束にわかれしっとりツヤツヤ。瞬きの度に高級シャンプーのスナップに見え、前髪の隙間からは手入れしなくても細く整った眉。その下には長い睫毛が影を落す真ん丸大きな濡れた瞳。その滑らで潤った瞳には両頬を押さえられたままの追い詰められた千佳が映り込んでいる。
「わ、わかった。話すから、や、止めなさい……」
千佳は追い詰められた自分に酷く驚き動揺を隠せず噛みまくり、真面目顔で自分のセイフティーラインを犯し領空侵犯する美瑠に焦点があわなくなってきた。
美瑠は千佳の両頬をガッチリホールドしたまま目を眇め話すまで放さない事を無言で伝える。
可愛くというか、脅迫めいたマネ事をするS美瑠に対し、
「……ふっ、二人が羨ましかっただけだから」
千佳はもう我慢出来ませんと言った感じで両目をキュッと閉じて早口で伝え挟まれていた華奢な手を掴んで引き離し、強引にそのまま背中へ持っていく。美瑠を後ろ手に押さえ込んでから彼の鈴を張ったような瞳を探し、
「それに、いくら美瑠が年下だからって女の子を超至近距離で見下ろすんじゃありません。それとも私のきゃわゆい上目遣いで睨まれたかったのかしら?」
形勢逆転と言わんばかりに、業と蔑む目付きで未だに千佳の膝の上にいる所為で目線が高い美瑠を睨み上げた。
……が。
何故か不覚にも幼い眼光に返り打ちに合う。千佳はとっさに後ろ手を掴んでいる手に大人気なく力を入れてしまう。しかし、すぐに子供相手に自責の念にかられ、少しだけ力を緩めそのまま目を瞑る。
美瑠は完全に千佳の太股を挟んで正座する格好になり、
「ごめんなさい。生意気な事を言って……でも。どうして不機嫌そうに羨ましがるのですか?」
素直に感情表現しなかった千佳を不思議がるように小首を傾げ千佳の顔を覗き込み、さらさらと蜂蜜色の髪を流しながら言った。
「社長と美瑠が親子なのに姉妹みたいに仲良くしているのを見ていると私は……私は親に対して一線引いている事を再確認したの。私、少し離れて傍観者を気取っちゃうのよね。煮え切らないでしょ? 何事も今まで自分で決めずにここまで来てさ……、美瑠に出会ったのも元を辿ればウチの両親との引き合いがあるんだよ。なんて言うか……なんて言うんだろう?」
半ば独り言のように話すおかげで重い空気にはならないが、当の本人は真剣に悩んでいる事なのだ。本当にそれが悩みなのだろうかと他人を惑わす。そんな雰囲気。千佳ワールドと言った所だ。
つまりは、遅い自我の芽生えと言うべきか社長と対等または同類であろうとする小さな美瑠を見て僅かに影響を受け自分の生き方を早期に図りたく焦っているといった所。
美瑠は、相談に乗ると言った手前何か応えなければいけない。
しかし、小学生。ドラマや漫画のように確信に触れる言葉を発する事等できずに、
「えっと?」
なんて言うんだろ? って事に答えるのかな? などと千佳の言葉を思い返すように桜色の唇をへの字にゆがませて天を仰ぐ。
それに気付く千佳は、なに言ってるんだ私。と反省しつつ、凄く頑張れば男の子に見えない事もない美瑠を抱き寄せ、
「ありがとう美瑠。あなたきっと将来も女の子のように育つと思うけど私だけは男前だと思ってあげるからね」
先刻からの胸の高鳴りがどういう事なのか理解出来ないが、とりあえず生意気な事を連発し続ける美瑠にお礼と悪戯を言葉に含め乳白色の鎖骨あたりに顔を埋めた。
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