小説 「アウローラの美瑠と黎明なマセラティ」

小説「アウローラの美瑠と黎明なマセラティ」

プレリュードとフーガ

秋月十紅/著


 耳元を押さえながら振り返った美瑠は、柔らかそうなベッドに片足を突っ込みアームチェアに座ったままの千佳を上目遣いで伺って、

「一応言っておきますね……おやすみなさい……ちーちゃん」

 声変わりもしない独特な甘い声をホテルの寝室へ響かせてから、フリルたっぷりのシーツの中へ隠れるように潜って蜂蜜色の髪を枕元へ出した。

「うん。おやすみなさい……美瑠……」

 千佳はそれに対し出来るだけの優しい思いを声に乗せ男の子にしては少し髪が長く少女のような顔立をした美瑠へ答えながら、イスに立て掛けてあるチェンバロギターを抱えた——

 千佳は高校に入ってはじめての夏休みを突然イタリアで過すことになった。

 それは、美瑠の母親。つまりは社長がクライアントの都合で一ヵ月程出張する事が決ったのが切っ掛けで、社長が溺愛する我が子と離ればなれになりたくないという気持ちに只の学生アルバイトである千佳が押し切られた所為だ。出発まで何度も断ろうとした千佳だったが、既に両親に手を回し承諾をとっていた社長は、『いい社会勉強になると思うよ♪』の一点張りで。強引に話をまとめられ日本を離れたのだった。

 イタリアでは、無許可で外出は許されていないことが苦痛だったが、重厚な石造りのホテル内での行動は許された。千佳の役目は簡単な事務処理を手伝ったり美瑠の夏休みの宿題を見る家庭教師を任されていた。つまり、膨大な雑務と小学生の子守りを任されたのだったが、時々簡単なデザインワークを手伝わせてくれるのが楽しみで、大人として魅力的な社長と可愛い美瑠との旅行だと割り切るとかなり美味しい『社会勉強』だった。

「何の曲がいい?」

 千佳はチューニングしながら流し目で、美瑠を見ると「バッハ?」などと小首を傾げながら十歳児にしては高尚なリクエストを言ってのける瞬間だった。そんな彼に予め決めていた楽曲だと悟られないように、わざと唇に手を添え多くの楽曲から選んだフリをして、

「ん〜とね……じゃぁ……プレリュードとフーガね」

 ウィスキー片手に煙草なんかふかしながら気取る女性を想像しながら言う。

 はじめは、なかなか心を開いてくれない美瑠だったが、千佳がギターでクラシックを演奏したのがきっかけでこうやって話せるようになり、最近では社長が仕事で夜遅くなる時は必ずこうやって甘えてくるようになった。

「やった! いつもの曲だ」

 フリだと言う事を見破ったのか美瑠は、ふひひ。と悪戯に笑みを浮かべてからシーツを口元まで隠して、目を細めて演奏が始まるのを待つ体勢を作った。

 千佳は、悪戯な笑みを浮かべた美瑠に対して冗談で蔑んだ目を作って、

「私の演奏は魔法なの。ミルクなんてたった三分で夢の世界へご案内よ!」

 チェンバロギターのスチール弦を弾く為に付けた指の針を見せながら『みるく』という二人でいる時にしか呼ばないあざなを使ってわざと挑発するような事を言うと片目を開けて、

「……今日は、がんばるよ?」

 既に弱きで今日の豊富を言う。何故か疑問系で。そして恥ずかしそうに笑みを浮かべ目を閉じた。それもそのはず。最近では最短レコード更新中。あっという間に可愛い寝顔を見せてくれるのだから。

 ……かわいい。

 千佳は小さく唇だけ動かしてから、そっと弦を弾いた。

 出来るだけ眠りを誘発させるように——、

 弦に触れる手は生クリームを掬うように——、

 そして、優しく髪を撫でるように——。

 チェンバロギターの旋律が響く部屋は、魅力的で表情豊かな塗り壁、見事なケーシングにアンティーク家具。そして、象嵌が入り草木の彫刻が彫られた豪奢なベッド。どれもが素晴らしい工芸品。そして羊の革で作られたランプがそれぞれをオレンジに煌めかせているのだ。

 それは、ギターの音色から醸し出す神秘的な世界と相まって絵本の一ページのようで、美瑠を天使のように、更に美しく精妙さを際立たせていた。

 千佳は、美瑠の掌が力無く天を仰いだのを確認してから静かに弦を押さえ、

「ざ・ま・み・ろ。簡単に寝かしつけてやった」

 美瑠に近付きリズムよく小声で囁いてから勝ち誇ったように腰に手をあてて指の針を取る。

 しかし、よくこんな高音の楽器で眠れるなぁ。と不思議そうに美瑠の顔を覗いてからチェンバロギターを片付け時間を確認した。

 社長が帰ってくるまでもう少し時間がある。

 千佳は、いつものように美瑠が眠るベッドに腰かけると、はふー……はふー……。と美瑠が規則正しく吐息を漏らす。そんな口元に耳を寄せ少女のように整った顔を眺めた。美瑠は薄香色の肌を少し赤らめ小さく形の良い唇を愛くるしく動かしながら腕をシーツの外へ出し頭の横に手を置き空気を握っている。

「可愛い……そんな所まで社長そっくりなんだ……」

 握るか握らないのか微妙なグリップに見とれつつ蜂蜜色の髪を掻き分けて、そっと美瑠の耳の後ろへ手を回し指を耳朶に沿わした。それは、千佳なりの愛情表現。

 自分の演奏で寝てくれたのが嬉しいのだ。

 そんな手がくすぐったいのか美瑠は千佳の手に頬を擦り付け指の動きを止めようとして、

「ぷひひ……あははっ」

 微かな声とともに僅かに身を捩った。

 ……? 起きてる?

 思った刹那、美瑠はぱっちりと目を開け濡れた瞳を披露。

 けっこうな至近距離に驚きつつ、

「今日のは特に我慢できませんでした……」

 残念そうに、罰の悪そうな笑みを浮かべ顔を真っ赤にしている。

 千佳も千佳で美瑠の首筋まで手を回していたおかげでかなり顔と顔の距離が近く、いきなり目が合って正直驚きながら、

「あっ……今日のは? ……のはって事は毎晩こうしてたの知ってたの?」

 美瑠の可愛い癖をいつも見れて嬉しかったのに、逆に子供にこんなことしていた私が変な人扱い? なんて考えたら恥ずかしくてなってうなだれると、

「ごめんなさい……ボク、はじめの何日かは本当に寝てたのですが……その、くすぐったくて。でも起きたのを言おうと努力したのですが余りにもちーちゃんが母さまのように優しい顔をしてたので——」

 美瑠は首に回された千佳の手を放さないように、ぎゅっと掴んで、

「——母さま以外から優しく触れてもらうって事あまり記憶になくて……それで……」

 愛おしそうに腕に頬を寄せ、

「……その……甘えて見たりしました」

 ごめんなさい。と目を閉じた。

 触れた手がすべすべで、さくら色の頬が心地よくて、細くしなやかな首筋が気持ちよくて……それより、美瑠の素直な心に——

 そんな仕種、言動が千佳のむず痒く感じていた心を一瞬撫でた。

 すれてないというか純真な心の声で寂しさを上手に伝えた美瑠がかっこよく感じたのだ。

 私はこんなに信頼されているというのに、自分はどうなのだろうかと。

 社長との仕事だけを優先していたのかも知れない。いや、その仕事も雑務と片付けたではないか。美瑠の事も、ただの子守りとして。イタリア旅行に行ける雑務だっただけではないか。

 それは、社長が自分を特別に可愛がってくれているのに胡座をかいていたからのではないか。

「このままボクが寝るまで、触っててもらっていいですか?」

 両親の勧めでデザイン系の高校に進学し、両親のコネで社長の所でアルバイトをはじめた事も、将来を見込まれ社長と出張に同行出来た事も、すべて受け身だったではないか。

「……寝るまで見ててあげるから……安心して……おやすみなさい」

 罪悪感に苛まれながら無邪気に甘える美瑠の顔を見ると堪えられず視界が不覚にも歪んだ。

 はじめ美瑠はまったく千佳に心を開かずにいた。しかし、幼少の頃から触っていたチェンバロギターのおかげで美瑠の心を動かしたのだ。それは事実。それなのに。

 千佳はそれにさえも向き合わず。

 思い付く事全てに向き合って無い事を、たった二週間程しか接していない少年の華飾のない素直な言葉で思い知らされたらしい。

「何で、泣いてるの? ボクが寝ちゃうと寂しいから?」

 美瑠は申し訳なさそうに言い。そして、千佳の丸いおでこを撫でながら、

「よしよし、ちーちゃん。ボク……ちーちゃんの魔法の音楽好きだよ。聞いてると温かくて」

 だから、泣かないで……。と睡魔と戦い続ける頭で考え小さく柔かそうな唇を必死に動かし千佳を励ます言葉を紡いだ。

 そして、ゆっくりゆっくりと撫でるすべすべの手が千佳の心を掴んでいった。

「ありがとう……」

 まったく……この家族には適わないな。

 このまま美瑠と一緒に寝てしまいたかったが、美瑠や社長にちゃんと応えられるよう、将来就く職種であるデザイナーの道と向き合おうという気持ちでそれを自制した。

 私、この慕われている心で生きていける。この心さえあれば……

 与えられるのではなく何かを掴んでいきたいと、何かと真剣に向き合う為に行動した事のなかった千佳にとって今夜は特別な夜になった。

 

 そして、次の日は初めてプレリュードとフーガを最後まで弾き終えたのだった。

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小説「アウローラの美瑠と聡明なマセラティ」2

アウローラの美瑠と聡明なマセラティ  秋月十紅/著

  1

「どうしたの千佳?」

千佳は慣れない右側の座席に落ち着きなく座っている。朝日で青く輝くティレニア海を眺めながら社長の運転するボロボロのレンタカー、フィアット500の鉄板剥き出しの内装を見比べるようにしていた。

そんな彼女を社長は面白いものを見るような目で訪ね笑顔を向けてくる。

「いえ。得に」

たまらず短く返事して俯く。仕事をテキパキとこなす普段の社長とは真逆。美瑠をそのまま大きくした容姿の彼女が酷く幼い笑顔を見せたからだ。

そんな会話に面白さを見付けたように後ろの少年が、ふくく。と声を漏らした。

「もう、美瑠まで何?」

子供のように千佳は頬を膨らませて抗議すると、

「休みの日くらいリラックスしてていいのよ?」

 緊張していると誤解した社長は千佳のすべすべの髪を一撫でしてきた。

「美瑠の前で子供扱いしないでください!」

ピシッと言うが、狭い車内。逃れることもままならずに、運転している社長に手を出せない葛藤していると美瑠はとうとう大声を出して笑い出した。

運転席と後部座席。大小。いや、中小。ほぼ同じ容姿の親子が太陽の輝きを一斉に反射させるティレニア海の勝る輝きを見せている。

「もう……」

窓全開でサンルーフ全開。気持ち良い風が巻込む車内で髪をぐっしゃぐっしゃにして大声で笑う蜂蜜親子から目を逸らせ海の反対側、対向車線に目を向けた。

古い車、古い車、古い車、比較的古い車。

対向する間隔は長く。振り返ると古そうな車ばかりが対向してくる。

そんな中、ティレニア海の青さと対岸の緑の間に割って入る一筋の赤い存在。それは一際赤く。艶やかで眩い流れるボディ。その口にはトライデントが輝く。

マセラティだ。

海の神から授かったトライデントを誇らし気に銜えて道々と一定の曲線を描く一本の軌道に釘付けになった。

なんて、かっこいい車なんだ。

すれ違ってもなお、飛行機が尾を描くように赤い残像を残すリアビュー。押出しの強すぎるフェラーリとは別格の存在感。これだけの残映を残すもフェラーリは動ならマセラティは静だと印象づける洗練されたパッケージにリアルタイムスロー現象を味わう。

「ちーちゃん? よだれ出てるよ?」

ふと後ろを見る千佳の顔を覗く美瑠と目が遭う。リアのハメ殺し窓に頬を密着させる彼は美しい顔にシワを作り必死に千佳の顔を覗いていた。

「……あまり、ラガッツァ(女の子)の顔を覗かないのミロルド(英国紳士)なんでしょ?」

 目が遭って嬉しいのか、口元を押さえる千佳が面白いのか目を糸に可愛い唇を三日月に変え、

「ボクは、ズノッブ(紳士気取り)ですから」

ボサノバが流れるカフェで絶世の美女に恋した優男がこれから歯が浮くセリフを連発しそうな会話をした。

一頻り笑った後、

「何見てたの?」

何故か興奮気味に社長が話してくる。何? 何? もしかして今のヤツ? などと子供のように愛くるしい表情で。

「ちょっとマセラティに、見とれちゃっただけですよ」

 千佳はハンカチで口元を拭い紅潮する頬を悟られないように、愛想なく返す。

「ほほ〜 可愛い所見せちゃって〜 美瑠! 今なら千佳お姉さんの真っ赤なほっぺに悪戯してもいいわよ」

それから、はーい。と元気よく返事する美瑠は、うろたえる千佳など気にせず。突いたり、摘んだりと大義名分を手に入れた者の強さを見せつけるのだった。

「おっ、お腹が筋肉痛になっちゃう」

結局美瑠の満足いくまで責められ続けた挙句に「おしっこ」と股間を押さえる始末。

人目が差さなそうな場所で車を止め、今は社長近くの露店へ行き美瑠は浜へ降りていった。

道路脇、駐車スペースに止められたフィアット500から降りた千佳はお腹を押さえて千鳥足で路肩を歩く。すこし酸欠気味だった。あれから頬から首筋。脇腹に太股と。相手が子供でなければセクハラで訴える事ができる際どいくすぐりに耐えたからだ。

美瑠とホテルでいるときは、クールに振る舞えるのにどうも社長の前だと調子が狂う。

そんな事を思いながら下腹を摩り溜息をつくと爽やかな潮風が、髪を掬い上げ風の妖精が戯れるように小さなつむじ風を起こす。

「……ったい」

目に砂が入ったようだ。右手でお腹を摩り左手で目元を押さえるという幼児顔負けスタイルを強要させられる事になった。

目元に集中! 涙よ湧いてこい! 等と念仏を唱えていると、

カツカツと固い道を踏み締める音がした。

「ちーちゃん……もしかして泣いてるの?」

目を閉じたままなので表情は確認出来ないが甘い声に謝罪の意が隠っている。少女のような彼はきっと眉をハの字にしているに違いない。

近付いて来る足音に対して、

「違うの……ミルクは悪くないの」

極端に三文芝居をかまし声に背を向け、心で舌をだす。

「えっ……やっぱりボクが、日頃の仕返しで虐めちゃった事に怒ってるんでしょ」

更に近付く足音が自爆しようが心のメモ帳に書き記し、

「ちーちゃんね。小さい頃……そうね、ミルクくらいの時だったかなっ。平滑筋筋損傷の病に感染したのは——」

 三文芝居に山場が訪れた。しっかりとタメを作って、振り返りながら、

「——それは、不治の病と診断されたわ……今、発病したみたい。もう、ちーちゃん。ミルクの傍にいられない! もう死んじゃうの!」

半ば叫び、異物が混入した目は真っ赤で涙もたっぷり。

気迫の演技。ここがステージ上ならピンスポット赤色間違い無し。

千佳は、涙で霞む目をそのままにオペラのヒロインばりに手を広げ、冗談よ。と言わんばかりに舌を見せた。

「私がキュン死しちゃうわ」

貯まった涙が頬をつたうと、はっきりと二人の影、

社長と美瑠が立っていた。社長は餌を与えるときの愛犬のように飛びつきそうで、美瑠は悪戯大成功した子供のように嬉しそうに破顔一笑。

行き場のなくなった両手を広げたまま固まった千佳は掌をくるりと返し、

「は、拍手がなくってよ?」

 脚光を浴びるヒロインを続けた。

「死ぬんだったら私の胸元で死んでちょうだいね。筋肉痛(平滑筋筋損傷)のヒロインさん」 

そう言い終える社長は、待ての出来ない子犬のように千佳に飛びかかり耳元で更に告げる。

「さっきのマセラティ、実は今、納車待ちなのよ。だから傍から離れないでね」

目を眇めマセラティの妖艶と対等できる美しさを持つ社長の超ドアップ笑顔を見せられ、

「もちろんです。ずっと傍にいます」

オネエサマ。等と口走ってしまいそうに千佳はとっさに夢心地に、うわ言のように返事した。

……。

エムっぽい容姿に騙されてはいけない。蜂蜜親子はエスなのか。

しばらく蜂蜜親子に野次られたが、フィアット500に戻る際そんな事が過ったが、

千佳には両親共にいるが片親の美瑠が羨ましく感じた瞬間だった。

美瑠の気持ちが分かったかも知れない——。

先日語った多忙な母親への寂しさを。

それは多忙な毎日を潜り抜け久々に訪れた休日がこんなにも甘味なものだったら、甘えて、誰かにそれを求めてしまう事が。

「ちーちゃん早く!」

 助手席を前にした美瑠が手をふる。

日が傾くまでまだまだ時間がある。手をふる美瑠とかかりにくいエンジンに気合いを入れる社長を見ていると今夜でも親元に電話でも入れてみようかと。

そんな迷いが恥ずかしくて——

そんな恥ずかしさを払拭させるように手をふり駆け寄ってみた。 

不思議と同性の社長にも、歳の離れた少女のような少年にも、甘味なものを見る目線を向けられても嫌だとか思わず何でも許してしまいそうな気がしたから。

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小説「アウローラの美瑠と聡明なマセラティ」3

小説「アウローラの美瑠と聡明なマセラティ」3

秋月十紅/著

  ※

楽しい時間というのは何処か別次元で進み、通常では考えられない照度を体験する事がある。

その体験と程よい疲れが絡みあう時間の中に千佳はいる。つまりは相当に惚けて、

アマルフィで世界一美しいティレニアの海と甘い色の髪を潮風いっぱいに受ける眩しい親子と貴重な余暇は、一瞬の瞬きと共に。

冷えていた千佳の心は、緩い人肌までに。

他人が触れてもきっと心地よい体温を伝えられる程に興奮した一日は過ぎていった。

いつも少し寂し気で甘え上手な美瑠と普段の仕事モードとはかけ離れた息子ラブに千佳ラブオーラ全開の社長は、アマルフィの風光明媚さに負けない美しさを放っていた。

千佳の目には眩しくて。温かくて——。

「ちーちゃん?」

帰ってきて早々クライアントから連絡があった社長はホテルのロビーで打ち合わせに入っている。千佳と美瑠は、それが見える少し離れたソファーに腰掛けて暇を持て余していた。

「……ごめん。なに?」

千佳は思慮に耽って力なく半開きになった口元を押さえ上目遣いの美瑠に目線を落すと、

「あっ、いいえ。ホテル帰ってきてから心ここにあらずって感じだから、つい……」

美瑠は少し過ぎた言葉を使ってしまった事に照れるように言い終わると、ふひっと照れ笑いを見せ、

「それと……母さまの前だと口調と態度が少し違ってて面白かったです」

小学生高学年には分からない社会の序列意識に欠けた発言に千佳は苦笑いを贈る。

確かに楽しい一端に垣間見た感情があった。正直、何かに嫉妬しているかのようなモヤモヤしたやつだ。

美瑠に対して?

社長に対して?

整理がつかないが、遠い異国の地にいる知人は二人。

千佳の感情を揺さぶる何かが思慮の淵に立たせるのだ。

親子が仲が良いのは当り前であって不自然でもなんでもないのだが、アタリ良く温かな雰囲気に包まれていた時間が心地よすぎて戸惑っているのかも知れない。

千佳は社長に出会い美瑠に出会い確かに変わってきている。両親の造った道を何度も両親を振り返りながら生きてきた千佳とは随分と違っている事に気付きはじめたからだ。

「ちーちゃん!」

深淵を打ち消すハレーションのような、思慮の世界から一蹴する美瑠の怒りを含んだ声音。

そんな美瑠に気付いた時には、唇を少し尖らせ頬を膨らませ、今にも千佳の膝の上に乗ろうとしている所だった。

「あの……ミルクさん?」

美瑠の肩ごしに、オレンジ色に滲むランプが。そして真剣にクライアントと打ち合わせをする社長が。徐々に美瑠の華奢な肢体で千佳の視界を奪っていく。

「ちーちゃん! 今ボクと一緒にいるのは……傍にいるのは誰ですか!」

基礎体温がはっきりと違う体温がのしかかり、千佳の両頬を小さな手で挟み強制的に美瑠の真剣で真っ赤な顔に標準を固定させる。

後光のように美瑠の背後からオレンジのオーラ。暖色に包まれて、

「ねぇ、誰ですか?」

 畳み掛けるように問いかける。

「だっ誰って、美瑠だよ」

千佳は二人に余計な感情を抱いてしまっていた事を悟られないように必死で目を逸らし、擦り寄る美瑠のシャツの隙間、乳白色からなる鎖骨あたりに目を落すが、

それが、美瑠の琴線に触れたのか興奮気味に千佳を一段と自分の顔へ手繰り寄せ、

「昼から様子がおかしいの気付いてましたよ。なんでも話してください。相談乗ります」

甘い幼な声で可愛く生意気な事を言って退けた。

超至近距離。美瑠の吐息が千佳の前髪をくすぐり溜まらず美瑠を見上げる。

改めて見る美瑠は、やはり少女そのもの。柔らかそうでサラサラの髪は極上の絹糸の束で、丸いおでこにかかる前髪は数束にわかれしっとりツヤツヤ。瞬きの度に高級シャンプーのスナップに見え、前髪の隙間からは手入れしなくても細く整った眉。その下には長い睫毛が影を落す真ん丸大きな濡れた瞳。その滑らで潤った瞳には両頬を押さえられたままの追い詰められた千佳が映り込んでいる。

「わ、わかった。話すから、や、止めなさい……」

千佳は追い詰められた自分に酷く驚き動揺を隠せず噛みまくり、真面目顔で自分のセイフティーラインを犯し領空侵犯する美瑠に焦点があわなくなってきた。

美瑠は千佳の両頬をガッチリホールドしたまま目を眇め話すまで放さない事を無言で伝える。

可愛くというか、脅迫めいたマネ事をするS美瑠に対し、

「……ふっ、二人が羨ましかっただけだから」

千佳はもう我慢出来ませんと言った感じで両目をキュッと閉じて早口で伝え挟まれていた華奢な手を掴んで引き離し、強引にそのまま背中へ持っていく。美瑠を後ろ手に押さえ込んでから彼の鈴を張ったような瞳を探し、

「それに、いくら美瑠が年下だからって女の子を超至近距離で見下ろすんじゃありません。それとも私のきゃわゆい上目遣いで睨まれたかったのかしら?」

形勢逆転と言わんばかりに、業と蔑む目付きで未だに千佳の膝の上にいる所為で目線が高い美瑠を睨み上げた。

……が。

何故か不覚にも幼い眼光に返り打ちに合う。千佳はとっさに後ろ手を掴んでいる手に大人気なく力を入れてしまう。しかし、すぐに子供相手に自責の念にかられ、少しだけ力を緩めそのまま目を瞑る。

美瑠は完全に千佳の太股を挟んで正座する格好になり、 

「ごめんなさい。生意気な事を言って……でも。どうして不機嫌そうに羨ましがるのですか?」

素直に感情表現しなかった千佳を不思議がるように小首を傾げ千佳の顔を覗き込み、さらさらと蜂蜜色の髪を流しながら言った。

「社長と美瑠が親子なのに姉妹みたいに仲良くしているのを見ていると私は……私は親に対して一線引いている事を再確認したの。私、少し離れて傍観者を気取っちゃうのよね。煮え切らないでしょ? 何事も今まで自分で決めずにここまで来てさ……、美瑠に出会ったのも元を辿ればウチの両親との引き合いがあるんだよ。なんて言うか……なんて言うんだろう?」

半ば独り言のように話すおかげで重い空気にはならないが、当の本人は真剣に悩んでいる事なのだ。本当にそれが悩みなのだろうかと他人を惑わす。そんな雰囲気。千佳ワールドと言った所だ。

つまりは、遅い自我の芽生えと言うべきか社長と対等または同類であろうとする小さな美瑠を見て僅かに影響を受け自分の生き方を早期に図りたく焦っているといった所。

美瑠は、相談に乗ると言った手前何か応えなければいけない。

しかし、小学生。ドラマや漫画のように確信に触れる言葉を発する事等できずに、

「えっと?」

なんて言うんだろ? って事に答えるのかな? などと千佳の言葉を思い返すように桜色の唇をへの字にゆがませて天を仰ぐ。

それに気付く千佳は、なに言ってるんだ私。と反省しつつ、凄く頑張れば男の子に見えない事もない美瑠を抱き寄せ、

「ありがとう美瑠。あなたきっと将来も女の子のように育つと思うけど私だけは男前だと思ってあげるからね」

 先刻からの胸の高鳴りがどういう事なのか理解出来ないが、とりあえず生意気な事を連発し続ける美瑠にお礼と悪戯を言葉に含め乳白色の鎖骨あたりに顔を埋めた。

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小説「アウローラの美瑠と聡明なマセラティ」4

小説「アウローラの美瑠と聡明なマセラティ」4

秋月十紅/著

オレンジに煌めくホテルの一室。

二週間以上滞在しているこの石造りのホテルは、既に自分達の部屋のように寛げる空間へと変わり日本の我が家が遠い過去のようだと千佳を錯覚させる。

それは、今まで以上に可愛く感じるシーツに包まった美瑠とデスクで日本のスタッフからのファックスに目を通す仕事モードで大人の魅力全開の社長を見ていると思うのだ。

人間が生きる時間からするとほんの僅かな時間でも千佳の生きていく上での価値観を替えるには十分な時間だと証明しているようなものだから。

——だから、だからこそ、千佳はかなり蜂蜜色の親子を魅力的に感じている。

これはイタリアに来なければ永久に味わえなかった。もっと言えば惰性で生きていては感じる事の無かった時間なのだ。 

そんな事を考えながら、今夜も変わらずチェンバロギターで眠りを誘いプレリュードとフーガを演奏して妖艶な家族を見ていた。

基礎体温が高くて心地よかった美瑠の肌を思い出し、普段の仕事では見せない顔、まるで千佳と同年代くらいに若々しく弾ける社長の姿を思い出す。

美瑠の眠りを誘発させるように——、

社長がリラックスできるように——、

千佳の流れる手つきは、いつにも況して切れが良く至高の空間を作り出した。

美瑠が腕をシーツの外へ出し頭の横で空気を握っても、音楽の世界に完全に浸ってギターを演奏する黒髪の少女は、眠るように目を瞑り落ち着き払った優しい表情で弦を弾く。

——……ふぅ。

千佳は余韻を残しつつも弦を押さえ演奏を終え深呼吸を一つ。ゆっくり目を開けた。

途端に目の前でジャラっと細い鎖が擦れる音に視界いっぱいにアーモンド型のプレート。

はじめは焦点も合わずに、それがキーホルダーだと気付くのに数秒かかった。

くくっ、あはは。と笑う声は社長の美声。

寄り目になっているのを自覚しながら千佳は、そのキーホルダーに書かれた文字を読取ろうとした。

「MASERATI……マセラティ?」

千佳には珍しく自分の指先を唇に当て、楽しそうに笑う社長を見上げた。

「そうよ。昼間見た新型マセラティじゃないけど三叉の銛には深い歴史があるの。美瑠はこの通りだから、今から小一時間ドライブしましょ」

社長は、完全にオフの顔。見方によっては本当に千佳の二、三歳年上のお姉さんに見えてしまうような幼さない笑顔で、子猫の前で猫じゃらしをちらつかせるようにマセラティのキーをちらつかせた。

千佳は猫パンチをお見舞いするように、それをパシッと掴み頬を膨らませて、

「子供扱いは止してくださいませんか? でも、いいです。私は社長の従業員ですから、お頼みとあればどこえでもお供しますが?」

顎を突出しツーンと言い放った。

しかし、マセラティに乗れるという甘味な誘惑。

昼間見たティレニア海岸を閃光のごとく駆け抜けていった赤いマセラティを想像して、猫が毛を逆立てるように足先から頭の天辺まで震わす。

「うん。千佳には強制的にお供してもらうつもりだから」

 当然のごとく囁くように千佳の耳元で告げ、さらに、

「マセラティって言えば夜。夜のドライブね。想像してみて千佳。伝統あるもの古いものを愛して止まないこのイタリア人の街に、それはあるの。妖精の軌跡のように美しい三叉の支軸に支えられた街灯の下、適度に丸みを帯びた石畳の上に夜景が写り込んだ妖艶なマセラティがオレンジに浮かびあがってるの……ドアをそっと開けてみると僅かにルームランプが灯り、職人が仕立てた柔らかそうな革が飛び込み甘い香りがするの……」

 直接、脳に語りかける柔らかな旋律に、千佳はすぐに顔が弛んだ。

「……行くよね?」

口説いている最中に不安になったようで社長は千佳の顔を覗き込む。

千佳はすでに弛んだ顔を浮かべ目元を微かに色付けて、自然にコクコクと上下に首を振っていた。 

「それとね、お願いついでにもう一つ、仕事意外の時は美咲って読んで欲しいかも」

続ける美咲の言い方はすでにお願いではなく望みに近い。

仕事以外では社長と従業員ではなく歳の離れた友達でいたいと言っている。そう解釈した千佳は困ったように美咲を一瞥しマセラティのキーを見ながら考えた。

千佳にとって歳の離れた存在とは親や親戚しか居ないのだ。

半ば強引な所がある美咲のおかげで、多少遠慮無しに接しても許される今の関係が素直に嬉しい。だから、少し調子に乗って、

「今さっき『強制的にお供してもらう』って言ったでしょ? それもお願いだったんだ〜」

千佳は美瑠の揚げ足をとる時のように、冗談で悪戯に蔑んだ冷笑を浮かべながら言った。

そんな千佳の表情を取りこぼさないように眺める美咲は、嘘偽りない眼で、笑顔も浮かべない真顔で、

「気を悪くしたのなら、ごめんなさい。あまりにも千佳がマセラティに興味を持ってたから、ホテルにレンタカーを用意させちゃったの……だから」

せっかく旅の出費を考えて古いFIAT500をセレクトしたのに、千佳の為に超高級車を用意した旨を明かした。

美咲は押しが強いのか、弱いのか。

普段から、只ひたすらに正直に接してくれる物言いが懐の厚さを探られているようで、千佳こそ負けずに真意を探ろうと美咲を見つめかえす。と、

「……い、行くよね?」

不安に目を細めている顔がそこにある。

上弦の月の双眸、目が合うと濡れた瞳は少し左下を見る。掛け値なしでの素直な癖は美瑠と同じ。

今ので大方察しはついた。マセラティドライブに食い付く事しかカードを用意してなかった美咲もおもしろいが、それよりも。

シャワーを浴びた時か両親に電話しに行ったときかに美瑠が美咲に例の事を話したでだろう事について、美咲なりの意見が聞ける事が嬉しかった。

千佳には、家族のように一喜一憂してくれる親子がくすぐったくて、

io sono determinato vegliare ogni nottr par maserati(私はマセラティの為なら徹夜する覚悟ですよ)夜のドライブに行きたい美咲さんには美少女千佳ちゃんが傍に居なくては絵になりませんから」

またも、調子に乗ってしまう。今のは全力で照れ隠しなのだが……。

Come la fata(妖精のなすままに)」

 美咲は、美麗に整った笑顔でそれを受け止め千佳の手を引くようにマセラティが駐車されているであろうホテル駐車場へ向かった。

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小説「アウローラの美瑠と聡明なマセラティ」5

……。

千佳は、以前美咲の仕事で同行した現場でスーパーモデルを初めて見かけた感覚に近い足の爪先から頭の毛先まで通電した状態で言葉を失った。

ホテルの玄関の真正面に駐車された赤いマセラティは昼間みたものよりも四角く小振りだったが、異様なまでの存在感を放っている。それは、玄関先に備わる街灯はすべてマセラティを照らしているような錯覚に陥り、千佳の目を引きつける。

煌めくオレンジの光はマセラティの為に。

数歩づつ近付くにつれ細かなエクステリアの作り込みを魅せる赤いボディ。

そのオレンジ色のスポットを浴びたボディは、少し朱がかる赤い鏡。賓客を虜にさせる艶やかなオーラを纏っている。

美咲は、それに怖じけずに、馴染むように、運転席へ美麗に回り込む。

千佳はそんな美咲を目で追いながら助手席ドアの前に立ち、楚々と佇む曇りない濡れたように輝く赤に触れた。

「……ん?」

一瞬外れそう。と目を向けたアウターハンドルにもトライデントの彫りが入っている。

それを、僅かに込めた力で押し上げると昔のヨーロッパ車らしい金属質な音とともに数センチドアが開き、美咲の囁きにもあった通り、柔かそうな革が目に飛び込んできた。

それは、視認できるもの全てを包んでいるのではないか。と錯覚するくらいに惜し気もなく使われた薄茶色の革とイミテーションではない磨きあげられた本物の木。ハレーションを起こすがごとく眩く視覚を麻痺させ、革から立ち上る甘い香りは程よい高揚感を呷った。

「痛くお気に入りのようで」

 千佳の反応に満足したようすの美咲は一気にセルを回さずに、後部座席の後ろにある燃料タンクからエンジンまでガソリンが到達するのを待つように、ジーという機械音を聞く。

……。

音が止むと負荷がある重い何かを回すような短い低音の次ぎにエンジンに火が入った。

「これなんて車ですか?」

千佳は興奮覚めやらぬと言った感じで胸元に手を寄せ美咲に尋ねた。

「ここに書いてあるんだよ」

言い終える美咲はグローブボックスの上あたりに指す。

「Ghibuli? ギブリ!」

そうよ。と満足気に笑みを見せ軽くアクセルを呷ってみせた。

直ぐにフェラーリやアルファロメオとはまったく違う演出の車だと千佳にも分かり、低く吼え響くサウンドは闘志の塊のように聴こえ走りへの期待感を与える。

「いいですねギブリ。社長のメルセデスGも好きですけど何だかこの車に乗った途端、運転手のポケットに収められた気がします」

柔らかく包み込む革に身体を預け美咲へ感想を伝えた。

そう? と一言。美咲は満足げに唇の端を吊り上げ戯けなく目を線にしてみせる頃にはマセラティは滑らかに動きだした。

*

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小説「アウローラの美瑠と聡明なマセラティ」5

秋月十紅/著

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小説「アウローラの美瑠と聡明なマセラティ」6

小説「アウローラの美瑠と聡明なマセラティ」6

秋月十紅/著

  *

美咲の絶妙なアクセルワークでギブリは加速。減速を繰り返す。

時折姿を見せるオレンジの街灯は優しく石畳の道を灯し、すれ違う車は殆どない。

木漏れ日のように差し込むオレンジの光は柔かいベージュ色の革と深い艶のあるウッドを照らし、中央の金時計は朧げに時間を示す。

そんな車中。低い排気音と微かに聴こえるエンジンの吸気音の他には、俯いた千佳と優しく微笑む美咲との囁きあうような息遣いだけが響いていた。

千佳の胸に詰まっていた異物は、マセラティの小夜曲によって摩られるように促され、

「やきもち? なのかな……一言で言ってしまえば。美瑠は『美の生る木は花から知れる』っていうか私の中ではそういう純粋で素直な『花』みたいな存在なんですよ。でもそれを一番理解しているのは美咲さんで……で、でも美瑠にやきもち妬いている訳ではないんですよ。何言ってるのかな私……ただ美瑠が子供として絶妙に可愛く立ち回っていて私には到底できない事を美瑠はあの幼さでやり遂げているような気がして……。私は、ダメ——。欠陥品なのかも。親の指し示す方向に流されて、わがままなのに素直になれなくて、達成欲があるのに他力本願で。目の前にある解決すべき問題にも手がつかなくて……。そんな状態でも美咲さんと美瑠を見ていると幸せに浸れる私が居て。反面、私である『千佳』を『それでいいの?』と責める波が押し寄せるんです。なんか意味不明ですみません……」

先刻、今さら何も変わる事がないのを知りながら両親に淡い期待を覚え他愛もない近況を話した。その時に感じた虚しさよりも、空回りした想いの中でも温かい会話をしてくれた事には感謝している。が、両親では答えは見出せなかった。

しかし、それの答えは両親が持っているものではないと千佳は気付いている。

そんな事を想いながら美咲に思い付く言葉を声に出してみたのだ。

マセラティギブリのエンジン音にのせられて、両親には無理でも親身になってくれる人には打ち明けた。

おそらく千佳にしかわからない言葉の羅列だと思ったが、美咲は嬉しそうに顔を綻ばせ、

「三回美咲って呼んでくれた——」

寒い小夜時雨れ並の湿った雰囲気が彼女の幼声とゆる〜い笑顔で吹き飛んだ。笑顔の後ろに花を咲かせるように、傷ひとつない綺麗な指を三本立てて、揺さぶって、

「——じゃぁ、三回言ってくれたから三隻の助け舟〜♪」

 ふざけたファンファーレでも聞こえてきそうな軽い調子で美咲はそのまま続けた、

「一隻目。人の思い。つまりこの場合千佳の心の葛藤よりも千佳を千佳として形勢するモノ全てで私は千佳から幸せを貰ってます。つまり抽出中! 現在進行形な訳。私は器用な人とか不器用な人とかそんなの関係なくて、ただ相手が自分にOKかNGかそこが大切!」

一隻目から皆目見当のつけようのない勝手気侭なハードルの高さ。

何だか分からないが、花を咲かせた笑顔で女として最良な形で自己肯定されたのだ。憧れている女性からの言葉だけに嬉しい。が、美瑠がふざける同じ笑顔で言うので図り知れない。

「二隻目。御両親との縁もあるけど、千佳は『親の指し示す方向に流され、わがままなのに素直になれなくて、達成欲があるのに他力本願で』と言ったよね……でも、何通りもある道を選んで私と美瑠に出会ったんだから。親の無数の選択肢の中から最終の決定は千佳がしているはずよ? それにいつかは親の指す道も無くなるんだし、その時まで勢いつけて惰性で人生駆け抜けちゃえばいい。勢いが足りなければ誰かに引っぱってもらってもいいんだしさ。今は見えている世界を精一杯生きていくだけで周りが道を勝手に造っちゃうんだから気にしてたら損だよ」

運転している者は口が滑らかだ。

美咲は時間をゆっくりかけて二隻目を出航させた。耳元で囁く睦言のように。

走るリラクゼーションルームと化しているマセラティのヘッドライトは明暗分け隔てなく照らし続け、

「三隻目。マセラティ。このブランドはね……特にデ・トマソ期のやつは。端的に言うと故障が多かったの、でもオーナーは見捨てずに個々の努力でそれを改善し自分に見合うスタイルを画一しているのよ。ショップで眠っているマセラティはどうだか分からないけど、今でもオーナーのついているマセラティはある意味新車以上の輝きを放ってこのギブリのように快調に走っているわ。それは故障一つない優等生なブランドでさえ及ばないものなのよ」

つまり、目標を心に秘めて真面目に過していると結果は後からのお楽しみ。良い悪いは回りが決める事。見守ってくれている人がいるから大丈夫という事。

千佳は、酷く簡単に整理してしまったが、

「ありがとうございます。社長の元で女磨かせてもらいます!」

結局の所、今目の前にある現実をこなして行かなくてはならない。

千佳は両手を胸元で握りしめ、吊り上げた眉はキリリと真剣さを美咲に伝えた。

「そんなにいきり立たなくていいよ。仁侠じゃないんだから……」

「でも! 親の勧めで始めたこのバイトも本職として考えてもいいなと今思えたのですから! ここはいきりたい所です!」

知らず鼻息荒げて美咲の上椀に手を添えていた。

「あんな人見知りが激しい美瑠を手なずける所以が分かるわ。『美の生る木は花から知れる』って千佳にもあてはまるわよ」

千佳は「ん?」と鼻にかかった声で不理解を伝え、そのまま眉を寄せてみる。

ハンドルをしっかり握りながら美咲はそんな子犬のような千佳をちらりと横目で見て、

「純粋で素直なのも負けていないわね」

まるで親のように美瑠と千佳を同列に並べようとする。

「茶化さないでくださいよ。昔年の悩みだったんですから……」

「綺麗な顏してるのに眉間にシワ寄せないの! 千佳には仕事でもいろいろ期待してるんだから頑張りなさいよ。仕事に対しての答えが出るまで何年もウチに居てもいいんだから」

美咲は、運転しながら人さし指で適格に千佳の縦に走った小さくシワを押してきた。

千佳は指圧されながら、その言葉に感動した。 

親以外からこのような激励を受けるなんて夢にも思わなかったからだ。

千佳はまだこの春に高校生になったばかり、与えられるのではなく何かを掴んでいきたいと、何かと真剣に向き合う為に行動したいと、それは先日の美瑠との連夜の演奏でも見つけだした答えだったではないか。

こんな優しい言葉をかけてもらえる環境にいる自分は幸せなのだ。と、イタリアまで来たのは社長の意向が強かったのかも知れないが、こんな良い環境に送り込んでくれた両親にもおぼろげではあるが感謝の気持ちが芽生えたのだ。

「おや? どうしたの千佳。にやけちゃって?」

「に、にやけてませんってば! 期待に応えよう思いを馳せていた所です!」

必死に抗議するものの急激に頬が赤くなる感覚が襲い、自分でも上気したとわかった。

精妙な人形のように微笑む美咲の操る真っ赤なマセラティギブリは、いつの間にかホテル近くまで戻ってきており速度を緩め、しだいに徐行への頃。

そんな美しく格好いい美咲へ千佳は苦笑いを返し、更に頬が染まる感覚に襲われ、たまらず俯いた。

車内にオレンジに煌めくホテルの街灯の灯りが差し込みだしたと同時。

低く呻くエンジン音とは別に熱したエンジンルームを冷す為、冷却ファンが回る音がした。

それは盛大に。マセラティらしく潔く轟音を響かせた。

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